10月になった。第一日曜である本日、歩く会と選挙を語る会。晴れていたので、歩いてからすぐに「外でやってしまおう!」となった。急な変更の苦手なHくんも、この清々しい空気のおかげもありあっさりと受け入れてくれる。「予定というのは変更することがある」ということを、なんというかあたりまえに、ずっと伝えている。そして、「変更することがあっても楽しいことは必ずある」ということが見通せている。信頼感というものは大きい。
「ただ歩く会」はコロナというものがなければ始まらなかった。しかし今ではすっかり定番のイベントになり、いろんな出会いの場になっている。「インクルーシブ」などという言葉をあえて使うことが必要ないくらい、「いろんな人がいる」という状態になった。そしてたぶん何も考えずに始めて、歩くのは気持ちがいいので、なんだか続いている。ここで欲を出してはいけない。続けよう!だなんて間違っても思ってはいけない。
「選挙を語る会」は、3回目である。1回目は2年前の衆院選のとき、行ったことのなかったメンバーが中心になって投票の行き方を学んだ。2回目は、石巻市長選挙のとき、直接長先生に話を聞いたり、選挙の合理的配慮の事例を学んだ。そして3回目である。今回は、「どうやって選ぶのか」という問いかけで、本当のターゲットは保護者や周りの人たち向け。知的障害のある彼らが政治についてどう理解しているのか、また投票の意味がわかっているのかということを、実は保護者(支援者)のみなさん自身も不安なのだ。「わかるはずない」と「わかっているはず」はいつも混在し、あえて難しいことを伝えない、要求しない、または過度に要求しすぎる、というアンバランスはよくあるのだ。
でも、そういうことを考え始めると、わたしたちはその選挙、本当に「わかって」投票しているのだろうか、という点ではみんな同じ。で、あれば、「どういう生活をしたい」「どういう話を聞いてほしい」「こうあってほしい」を伝え、それを聞いた自分たち以外の有権者も同じように考えてくれることも「政治に参加している」と言える。考えや思いを、閉ざしている必要はどこにもなくて、「わたしはこう考えている」が、すべての人が言えれば、「選ぶ」ときにだって分かりやすい。信頼している人の意見を私たちは大事にしたいと思う。それは、相手を大事に思うからこそである。
政治家が言っていることが分かりにくい。それもある。行政のやっていることが分かりにくい。それもある。しかし、政治家と行政だけのことではない。家族の中や友達同士でニュースの話題について解説してみたり、考えを聞いてみたり、「分かりやすくそれをどう伝えるか」を実践している人が少ない。
だったら、やったらいいんじゃないか。という程度の「語る会」である。なんの準備もいらない。ただ、体験したことや感じたことを話してもらう。それだけである。体験を聞く、感じる。大人が真剣に喋っている。たしかに青年たちにとってはすこし難しく感じるかもしれない。でも「大人として一緒にいる」、「考えを問われる」、「尊重される」、「答えの見えないことがあることを知る」ということの方が大事だ。そう。こんな活動も、欲を出してはいけない。大事なのは、続けることではない。大事だからやる、という人が循環していくこと、なのかもしれない。
分かりやすく選挙情報を伝える、という練習をしてみよう、と思った。ぜひ情報を一緒に「分かりやすく」してみませんか。(このブログも分かりにくいのかもしれないが)