「家族」を学ぶということ

誰しも必ず、あるもの。それは今そばにいなくても、産んだ人がいる、ということでもあり、そのあとにどういう場にいるかどうか、は人によってかなり違う、というだけ。

人間も、過去さまざまな形で家族の形態が変化している。また、「家族」にはその法律的な意味合いもあれば、機能として、役割として、いろいろな定義がされているから、「これが家族だ」などと言い切ることはできない。

そんな不思議なものが、なんだかあたりまえみたいに「家族なんだから」「家族は大事」などと語られたり、挙げ句の果てに「一家団らんは大事だ」なんて言われてしまうこと、「それ自体」に強烈な違和感を持って生きてきた。

「家族」とは一体なんだ?と感じたまま育ったと思う。それは今となってはいい意味で「ふつう」ではなく、その上で、私が大人になる上で感じてきた違和感の数々が、団士郎先生の家族理解ワークショップを受けたときに「ああ、なるほどそういうことなのだ」と納得した。それぞれの「価値観」が、その家族ごとに違うこと、システムとして動いている家族を理解すると、それぞれの行動の意味が見えてくること、それよりなにより、「その選択をした」という価値基準が何から生まれ、それ自体がその本質だったりする。原因があるから結果があるわけではない。固着している関係に変化が起きること、その変化は意図したり意図してなかったりすること。

「わかった気になる」というのがいちばん厄介だ。専門家が増えたらこの世の中の問題はなくなるどころが増えた。わたしたちは、わたしたち自身でなければ「変化」させることができないものがたくさんある。

スキルや技術を身につけるのではない。まさに、「自分自身の在り様」を確認することが目的の一つかもしれない。

ぜひお越しください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

朱紅 icco/櫻井育子

対話的書家
教育デザイナー



特別支援教育の現場経験をもとに、
書と対話を通して、人の発達や関係性を探究。
すみあそび、Art Play Worker、はみだすラボなどの活動を通じて、
人が自分の感覚を信じて生きられるための
学びと実践をデザインしている。

目次