支援学校の高等部の教員をしていたときに、「卒業するのは嫌だった」「学校が一番楽しかった」という卒業生を何人も見てきました。そのときは、「ああ、学校が楽しかったと言われるのは嬉しいなあ」と、素直に思っていましたが、ふと、何か違和感を感じ始めたのでした。
過去がよかった、と言わせてしまうほど、彼らは「いま」が充実していないということなのではないだろうか。わたし自身が「あのときはよかった」などと思うこともなく生きているので(すぐ忘れるからですが・・・)、「学校は楽しかったなあ、でも今はもっと楽しいよ」という声を聞きたいなあ。
もちろん中には、いまの生活を充実させ、楽しんでいる人たちもいます。でも、やはりそれでも、「集まる場」「遊ぶ人」が圧倒的に少なく、そんなものかなあ、という諦めに陥っている本人や保護者の姿もありました。考えてみれば、学校生活よりも長いのが、卒業後の生活なのです。(そもそもこの考えだって、学校があるからこそ生まれてる考えですが)
高等部時代には、「社会人になるのだから」(思えば「社会人」ってなんでしょうね・・・)って、想像だけの「社会生活」や「働く生活」を意識させて、高校生として楽しむことをあまり重視させられなかったのではないか、という疑問がふつふつ湧いていました。これは、わたしが受けてきた教育もそうですが、「中学になったら」「高校に行くために」「大学を出たら」みたいに、ゴールを先に先に見せられながら、いまを生きることそのものが、まるで遠い未来のための「下積み」のような錯覚に陥らせる教育だったような気もします。
先日、フリースクールで育ったという女性と話をしました。彼女はいま自分で起業し、高校の勉強もしていて楽しいという。さらに、知人から学校に行かないで働いている方の話も聞きました。彼は「卒業したこともないから、学びが終わらない」のだと言っていたという。この、「学びが終わらない」って、いいなあと思いました。義務教育です、はい、学年が修了です、はい、卒業です、という形は、「学校」や「学年」が終わっただけ。本人にとっての「学び」が終わったわけではないのです。
「生涯発達」の視点から考えても、ある年齢がきたから成長や発達が終わるのではなく、人間は成長し、発達し続けているのですから、常に新しい自分と出会い、楽しむという視点はすべての人に必要です。そうやって考えると、特に障害のある人たちにとっては卒業後の居場所が少ないことや、事業所と家との往復になりがちなことな事実です。
このような話をしていたら、「もしかしたらそれは障害があるとかないとか関係なく、遊びが足りないってことかも」ということに気付きました。「無駄なこと」とか「追求したいこと」とか「バカみたいなこと」って単純に楽しそうで、わたしは大人になるのが楽しみだったけど、それをせずに効率よく生きている社会だと、それができないのかもしれません。うまくいくこと、失敗しないことにとらわれると本当に何もできない。やっぱり無駄なことをとことんやっている大人をたくさん、見ておいたほうがいい。
障害のある青年の余暇の場所を充実させること、それは文化を創ること、遊ぶこと、楽しむこと、だと思っています。それは、理解のある人の慈善事業でも何でもない、「楽しいことを一緒に楽しいという人がただ集まるだけ」でよくて、それは人間関係を対等に保つことのできる人がいればが成り立つものと考えています。難しくしないこと、シンプルにすること、自分と他人が違うことを受け入れることのできる大人がいればいいのです。
今はコーディネーターという仕事で、卒業生の卒業後の居場所である福祉の場で会えるメンバーが増えました。その場所そのものが充実することもわたしのやりたかった仕事です。今よりもっといい場所にしていきたい!と本気で考えている方々に出会えることもとても嬉しいことです。
さらに、もう一方で、第三の場所でも誰もが一緒に「遊べる」そして「学べる」という社会にしていくことが次の仕事。それを実現するためにはどうしたらいいのか、じわじわと仲間が増えてきましたが、ポイントは「終わりがない」ということ。そして「楽しい」ということなんだろうなあ、と思いながら、「動き回って出会い続ける」をTANEのテーマにしていきたいと思います。