「書道」と聞いたときの印象がどうしても、「習字ね〜、苦手」「わたし下手だから〜」というネガティブなものが多く、それは大人になればなるほど多い。一方で、まだ筆を持ったことのない子どもたちや、あまり接したことのない海外の方や、経験の少ない障害のある方々は筆を持つととてものびのびと創作する。
実は古典臨書をしていくと分かるが、「え、この人は本当に上手い人なの?」という古代の書家がいたりする。つまり書における「うまさ」というのが、私たちがいわゆる書き初め書道展的な「うまさ」とは異なることに気がつく。
絵画だって実はそうだ。写実的なものが「うまい」のではなくて、そこに自分なりの「表現」があって、人を惹きつけるものになる。それでもまだ、絵はわかりやすくて、「いろんな表現がある」ということが理解されやすいが、こと「書道」については、みんなが「文字」として認識するがゆえに、「うまい」や「下手」を簡単に言ってしまう傾向がある。
しかし、習字の時間には歴史的な人物の書を目にすることもなく、やはり指導では「お手本通り」に書いた人が褒められるのだから、そういう認識になってもしかたないのだと思う。それではまずこの書を見てほしい。
良寛は江戸時代を代表とする禅僧で、すぐれた書人であったと言われている。その生き方は、生涯寺を持たず、質素で清貧、村の子どもたちと遊び、純粋無垢な人間だったと逸話が残っている。人付き合いが苦手で嘘も争いも苦手。これだけ聞いてもおそらく当時は相当の変わり者。その彼の残した書は、どこにも巧みなところもなく、素朴でまるで子どもが書いたようなふわりとした印象である。
何も知らずに見た人は、実のところあまりうまいわけではない気がする、、、と思ってしまうこともある。いかがだろうか。
古典として残されている書は、ほとんどがそのようにオリジナルな書体、独特な雰囲気、そして独自の美しさや哲学のようなものを感じさせる。つまり、「今までと違う」「他にない」というものが新たな書体として残っていく。そう考えればこそ、お手本通りに書くことではない価値を求めて、自分の思う通りにのびのびと書いていくことは、新しい伝統を生み出すことになる。
「書写」はあくまでも書道の中で切り取られた一部の方法である。それはまさに武道と同じような修行であり、「このように筆を使うと、このような線が書ける」という自由自在さを身につけることをまずは基本とするからである。
小学生などを見ていると、まずは書きたいように書いているのだが、そのうち自分で「もっとこんな風に書きたい」という欲が出てくる。まさに内発的動機付けである。そこで、「ここの線がうまくできない」と言って練習し始める。大事なのは、「自分が納得するかどうか」である。しばらくしていると、「よし!」とか「うまくいった!」と満足する。
知的障害のあるGくんは、まずは無条件に褒められるので自信をつけていたのだが、そのうち何回か同じものを書いてから、自分でいいと思う方を選べるようになってきた。また、淡々と同じように書くだけだったのが、自分なりに手本をアレンジして楽しめるようなってくる。「踊りながら書いていいよ」と言ったら、それはそれは楽しそうに書いてくれた。自己主張の少なめな彼である。こうした表現が出てくることも喜ばしい。
書も伝統文化の一つであるが、古典を古典として楽しみ、新しい書体を生み出していかなければ廃れるだけである。だからこそ、様々な人たちと新しい書体を生み出し、書の楽しみ方を見出していきたいと思う。