定期的に移動することにしている。目的は様々で、研修旅だったり、誰に頼まれたわけでもない自由研究、仕事のようなものだったり、人に会うことだったりする。観光地というような場所に行っても、人のいないところを見つけながら歩いてくるのが好きだ。ほぼ本屋巡りになるので帰りの荷物が多い。
旅をする、という表現よりは、「移動する」という感覚である。震災後に住む場所がなくなるという危機感を味わってからというもの、「定住する」というイメージがますますなくなった。「家」というものに固執しなかった祖父母のおかげで、そもそも「実家」というものは存在しないし、それが当然と思って育っているので「借り暮らし」である。
震災直後、母の友人は新しく建てる家の相談に行くため、母をハウスメーカーに付き合わせた。母の友人はそこで、「ああ、この人は(そもそも)家がないから」と言い放ったという。おお、私たちは家がない人と思われているのか!という驚きと、その「持ち家至上主義」は、どうも私たちには不自由にしか見えないので、全く異なる価値観なのであろう、と笑った。
このような、どうしても分かり合えそうもない感覚、というものは、そこにずっと居続けることで窮屈になり、卑屈さを味わいがちだ。田舎であればあるほど、固定した人間関係とそこに根付く価値観に囚われる。だからこそ本を読み続け、視界を広げ、さらには自ら移動して歩くことで、もしかしたら私はかろうじて生きてきたのではないかとさえ思う。
本を読むこと、移動すること、書くためのもの買うこと、新しいものを見聞きすること、そのことについては惜しまれず費やしてもらったのだ。何を大事にして自分は育てられたのだろうか、ということが大人になって気がつく。それは自分が選ぶものにあらわれる。
「小さいときに何を与えたらいいのでしょうか」「小さい時に音楽を習ったほうがいいのでしょうか」「どうやったら本を読む子になるでしょうか」など、時に相談されることもあるが、ひとつ言えるのは、幼少期に必要なことは、「安心した環境」と「関心を示したことを否定しない」と「無理をさせない」ということではないかと思う。
子どもが今何を感じ、何が好きで、何を楽しいと感じているのかを、ただただ見守ってもらえる環境と、好きなことをとことんできる時間。子ども時代に必要なのはそれだった、と思う。だからわたしは、食べたくない、やりたくない、ということに関しては、自ら「無理しない」と言い続けてきたらしい。
今回、「やりたくないことはやらない」という文言に惹かれて、買ってきた本がある。移動したときに手にした本というのは、とてもよく自分をあらわす。自分が、何を大事にしているのか露わににされた気分である。
我慢する、ということが美徳とされる時代が長かった。今もそうかもしれない。そもそも仏教用語としては「我慢」は良い言葉ではなかったという。「やりたくないことはやらない」と言えるかどうかは、とても大事なのだ。その意味では、わたしが出会ってきた多様な生き方をしている人たち(一般的には障害があるとされている)は、何かを誘っても、あっさりと「行かない」「やらない」と言える人が多い。
一方で、「社会性がある」とされている人たちの方が、本当は行きたくないのに「行きます」「やります」と答えがちだ。小さいことであるが、この「本当はこうだけど、こう言っておいた方がいい」ということは、やはり命取りなのではないかとさえ思うようになった。
特に、いわゆる「社会性のある」親や教師の場合、自分がとてもとても我慢して育ったために、多様な彼らの、いわゆる素直さ(本来は脳の機能上の特性である)が「わがままで許せない」、ととらえられがちなのだ。その分かり合えなさは、単なる障害理解や障害受容などというものではない。この「ねじれ」の関係を解きほぐし、お互いの価値観に寄り添いながら、誰もが我慢しなくてすむところをゴール地点にしていく、という地道な取り組みがわたしの仕事であり、実は趣味なのかもしれないと思う。