先日、アドベンチャークラブの青年たちに、「ただ集まってご飯を食べたり飲んだりしたい」(私が)と思い、突如思い立って企画して(いや、ただ声かけて)みた。ただそれだけ、と言えばそれだけなんだけれど、予想した通り楽しくて、いやむしろ、予想以上に楽しくて、でもこのことを私が発信するということ自体が、もはや対等な関係とは言わないんじゃないだろうか。だって「友達と遊んだ」ってことに過ぎないよね、なんでそれをわざわざ企画しただの、なんだの言ってんの?というもう一人の私がいる。
でも、少なくとも現在は分断されている「障害のある人」「障害のない人」という感覚で生きている人たちを、すべてひっくるめてすべての人が「一人一人が多様な存在である人間というもの」という表現になるのだ、と思っていただくまでは、(それが本当の意味でのインクルーシヴだと思っているが、おそらくそういう社会になってしまえばインクルーシヴという言葉さえなくなるのかもしれない)どうにかこの、障害がある人たちが見えにくくされているという現実に、あえて「わざわざ」注目してもらうという段階も必要なのかもしれない、とも思っている。
そして、こんなことも思った。
「適応」しなければならない、「枠」に収まらなければならない、そして何か役に立つことや、名誉なことや、点数や、褒められることや、生産性や、そんな類のことをするために生まれているのではない、ということが前提なんだ。
生きている、ということだけでそれはもう、すごいことなんだ。
何もしなくてもいい、いるだけでいい。
どうやら私たちの世界の作り方の問題だけで、人間そのものはなんにも変わらない。いろんなからだ、いろんなかたち、いろんな生き方がある、ただそれだけ。
支援することが前提で、本人をそっちのけにしたような支援計画で、本人の意思を尊重できない福祉制度も腹立たしいけれど、それよりも「その世界の人」という風に分断し、彼らの存在を想像できないままに進んでいく世界のほうがあたりまえで、まちづくりやイベントや店や建物デザイン、まだまだ、いや、むしろ配慮されている方が少ないかもしれない。それはなんでか、というとやはり今まで分断したまま進んできた教育制度の問題、そしてそれに対してうまく働きかけることができない自分自身にだって腹立たしい。
「配慮しました」という態度だって、本当は対等なんかじゃないんだろう。大事な友達が車椅子で、その人に来て欲しいなと思ったらどういう場作りをしなきゃなかったんだろう、とか、シンプルにそういうことなんだと思う。
友人と会って、ごはん食べて、帰る。ただそれだけのことが、特別感のあることになってしまう人たちがいるということ。出会わない、出会えない、誘われない、ってもったいなすぎる。こんなにめちゃくちゃおもしろい人たちなのに。ヘルパーさんとしか出かけない、ってやっぱりなんかもったいない!!
「ただ集まってご飯を食べるだけの会」は、とにかく楽しかった。この日、一人の青年が初めてたった一人でバスに乗って待ち合わせ場所に来るというチャレンジをした。今までも何度も計画してみたけれど、やっと本人が「いける」と思ったタイミング。家族とともに喜んだ。小さいけれど大きい出来事だ。そして彼の希望通りに居酒屋に行き、みんなで食べたり飲んだりした。
とにかく対等ってなんだと問い続けながら、「ただ集まってごはん食べるだけの会」、ひたすら地味にやります。
yuichi kato