「責任を取る」という言葉が、ほんとうに適切に使われ、ほんとうに責任を取ったと思える行動、というものにあまり出会ったことがないのが事実だ。なにかあったら自分が責任を取るからやってくれ、とか、ドラマや映画の中では聞いたけれど。
「なにかあったら困るから」
「安全・安心を第一に」
「決めたのは自分ではなく、みなさんですから」
「みんなが決めたんでしょ」
「あなたがいいって言ったよね」
「自分は知らなかったので」
こうした言葉を聞きながら、何を学ぶのかというと、「誰も責任は取らないので、自分も決めない方がいい」ということ。こうして、長いものに巻かれ、決めたことに逆らわず、誰一人として責任を取らない社会が生まれていくのかもしれない。
学級会というものがあり、子どもたちは「会議」したり、「自治」という民主主義を学ぶ。放っておくと、弱いものを責めたり、無理やり多数決にしたり、思い通りにしようと強い子が言い負かそうとしたりする。違和感を汲み取りながら、時には不快な思いや居心地の悪さを味わいながら、進んでいく。決めたことに失敗もたくさんあって、「やっぱりこうすればよかった」とか、「何でこんな風に決めたんだっけ」とか、文句も言いながら、多様な価値観がひとつにまとまらないこと、を覚えていく。
「みんなで決めたんでしょ」と言うのは簡単だが、決定したことがすべて正しいとは限らない。だからこそ、「やってダメならもう一回考えてみればいい」と言われると、子どもたちはこぞって知恵を出し合う。だから、2回目や3回目の方がいい決まり方をするし、自主的になっていく。だからこそ、学校ではたくさん失敗した方がいい。
「失敗は成功のもと」と言うではないか。学級会だってそれくらいのことができる。決めたからと言って押し通し、「言っても無駄」という諦めの気持ちを持たせると何が起きるか。「無気力」である。そして生まれるのが、「無責任」である。だってなんか知らないうちに決まってて、反対したって無駄なんでしょ?だったら言う通りにするしかないんでしょ?という諦めの感情。結局、「自分が決めたわけじゃないし、責任とか知らないし」という感情が強くなればなるほど、相手を想像する力を失う。そして自分勝手な文化ができあがる。
想像もつかない出来事が起きたときに、対応策が変化することは構わない。よりよいものを生み出すためだ。「ダメだ!」と分かったら翻すこと、よりよい方法を探ること、事実を隠さず繕わないこと、みんなに聞いて考えること、間違っていたら謝るということ。歴史をなぜ学んでいるのか。それは、過去の出来事から失敗や成功やすべてのことを学ぶためだと思う。
小学生までの学習内容というもので、社会の本質的な解決方法と、社会のあり方を学べると思っている。難しいもの、専門的なもの、一般市民は黙っていろ、いう雰囲気を、私たち大人が誤学習している可能性が高い。もう一度、大人が社会を学ぶ必要があるのだと思う。これ以上、諦めを感じないように。
自己理解
自己選択
自己決定
本当に大事だ。
責任を取りたい。失われた世代と言われた我々は、上から単純に下りてきた価値観にさえ従わなければ、今更失うものなどない強さを持っている世代だと思っている。今できることを探すしかない。関心を持つこと、想像すること、正しい情報を得ること、適切に怒り批判すること、鵜呑みにしないこと、大事な人と時間を共にすること、話し合うこと、冷静でいること、諦めないこと、伝えること、できることを探し続けること。