幼いときに泣いても喚いても何を伝えても伝わらない思いをした子どもは、その後「諦め」を知り、「無気力」になる。怒りの感情はときに人間を破滅させるほどのエネルギーになるため、アンガーコントロールなどによって、その感情を「管理」させることが望ましいとされているが、最近は本当に「それ」は必要なのだろうかと思うことすらある。
「怒り」を感じずにはいられない。そう思っている大人がどれだけ存在しているだろう。世の中の理不尽さが際立ち、ありえないような決定に振り回されたり、ありえないような嘘を散々つかれている。社会で習ったはずの民主主義という言葉と、今生きている場所のそれは本当に同じなのだろうか。言葉の定義が変わったのではないだろうか。美しく潔く強い薄っぺらい言葉の羅列。しかし、しっかりと怒っている大人にはなかなか出会えない(ネットの誹謗中傷は「怒り」ではなく他者を傷つける犯罪だ)。すでに私たちの世代は「失われ」ているため、国によって守られることを期待することのない世代。諦めと無気力、それは政治への参加やリーダーシップを取りきれないままに、適切な時期に大人になりきれなかった世代と言えるかもしれない。
怒っていいのだ。感情を露わにしていいのだ。その「怒り方」を知らないのかもしれない。
おとなしくいうことを聞き、「わきまえる」人間を好むのは何も政治家だけじゃない。アンガーコントロールが必要なのは衝動性の高い子どもたちやキレやすいと言われる人たちだけでなく、「適切に怒りを表現することができない」という大人にも必要だ。コントロールは何も「抑え込む」だけの問題ではない。
先日、ある若者が、「子どもたちがおとなしすぎる気がする」と言った。それは当然なのかもしれない。政治や世の中や理不尽な上司や圧力に抗う大人を見てこなかったからなのかもしれないと思った。
怒りという感情、憤りという感情はある意味では「違和感」であり、感じたときにすぐに消せばいいというものではない。だからこそ、幼い子を前によくありがちな「〇〇ちゃん、怒ってるでしょ、ごめんなさいでしょ」という言葉だけの謝罪にはなんの意味もない。(その通りに大人になり、そのまま立派な謝罪ができるようになった方々も多い)その怒りがどこから湧き上がり、なぜその感情があるのかをじっくり見ていくことはとても意味のある作業だ。そして何よりも、誰かのための「怒り」ほど優しいものはなく、それをどうやって「赦し」に変えていくかという作業は、本来とても尊いものである。相互が理解し歩み寄って対話し、初めて、「怒り」が「赦し」に変わるのである。
もちろん、怒りの感情だけでは進まないこともある。でも、まず感じないと始まらないこともあるのだ。
以前も書いたかもしれないが「Fukushima Voice」という和合亮一氏の詩をもとにしたある演劇作品がある。それを見ると母は、「申し訳なさで反省したくなる」と表現した。それは読み解くとこうなる。「原発を建設することになぜもっと反対しなかったのだろうか。自分たちの時代はあまりにも調子に乗っていた気がする。」と。実は、女川原発がなんであるんだ、あなたたちがもっと真剣に反対すべきだったんじゃないか、などと私が怒っていたことがあるのだ。それに対する答えのような言葉に受け取れた。「申し訳ないと思う」は、すごい言葉だった。推進したわけでも責任者でもないただの観客の言葉。社会のいろんな出来事を、自分には関係ないものだと思っている人があまりにも多い。大きすぎる問題は「誰のせいにもできない問題」にしてしまうから、ますますうやむやになるのかもしれない。そして、「そんなことを考えているなんて真面目ね」と、ときには一蹴されてしまうのかもしれない。
ありとあらゆる問題は矛先をずらされ、無気力になっていく大人たち。権利を奪われていいはずがないのだ。権利意識の乏しさ、怒りの感情の乏しさは似ている気がした。
私たちは、「つなぎめ講座ライト(right)」を年6回開催していくが、このエネルギーは実は理不尽に搾取されたり、権利を守られていない現状へのちょっとした怒りが原動力だ。そこから先に進めるものに可能性をみたい。