小学1年生から3年生まで使っていた先生と母の「交換日記」のようなもの

なぜか手放せないものがこれ。小学校1年生のときから3年生くらいまで使っていた連絡帳です。なぜこれが手放せないのか。それはこの連絡帳が、母と先生の交換日記のように私のことを記し支えてきた、まさに「特別支援」の原点だからです。

幼稚園は2ヶ月で「中退」という道を選び、ほぼ大人としか接してこなかった私は案の定、小学校生活には適応できませんでした。いちいち小さなことでつまづくのですべての時間は恐怖。とくにクラスメイトが動き回る時間が恐怖です。「給食がいや」「休み時間が怖い」「体育の時間に集合できない」「友達と会話できない」という状態。「場面緘黙」やら「母子分離不安」やら疑われ、入学早々、別室で個別検査を受けた記憶が残っています。

いろんなことを一気に感じるので、多分指示を聞くことができていないのでしょう。まさに聴覚過敏の子どもと同じような状況で、入学して早々、登校拒否。そのときから始まった、連絡帳での「交換日記」。私が夜中に「行きたくない」とつぶやくと、母は私が何がいやなのか、困っているのかを聞き出し、朝には細かく書いてくれた連絡帳を私に渡してくれました。それを先生に渡すと、なんとなく先生が分かってくれたような気がして、実際に「給食は残してもOK」と言われたり(当時は残さず食べるが絶対でした)、体育では集合できるように待ってくれたり、ちょっとずつ私が理解できるような環境が整ってきました。

国語も算数も苦手で宿題も家に帰ると忘れ、夜中に思い出すので本当にどうしようもないのですが、それもとにかく「学校がいや」=「家に帰るとすべて忘れる」という無意識の仕業ではないかと今なら分析できます。夜中に泣く泣く宿題をする私を叱るでもなく、手伝い続けた母。面倒なのは忘れるのも「いや」というこだわり。やらない=行けない、なのです。

子どもには子どもなりの考えがあり、理由があり、それは大人から見てどんなに些細なことでも「そう感じてしまったのだからしかたがない」と母は、周りに合わせるでもなく、私のことを理解して味方になってもらう、という手段で連絡帳に丁寧な文章と丁寧な字で書き続けてきたのでしょう。見た目はやや派手で警戒されがちな母でしたが(!?)今でもこの連絡帳を見ると、その当時の母の思いが詰まっていてちょっとうるっとしてしまいます。

そんな状況なのにも関わらず、母と私の暮らし自体は明るく楽しかったので(宿題を忘れるのは家に帰ると楽しすぎたからではないかと。。。)悩む暇はあまりなく、学校での価値観に左右されることなく、非常に気楽に生活していたのも事実。母子家庭で、母が働くのは当然であるにも関わらず、私は「学校から帰ってきたら家にいてほしい」とまるで亭主関白のようなことを言い出す始末。それにも母はなるほど、と言って内職に切り替えるということを堂々とやってきました。

あの時に、もし「なんでみんなは学校に行ってるのに」「頑張って一緒にやりなさい」と言われていたらどうなっていただろうか。私の性格ではおそらく自信を失い、閉じこもり、家でも安心できずに自分を責めるようになったでしょう。言われなかったとしても、例えば母のため息、母の苦しそうな顔、悩む様子、それを感じてしまったらどうなっていたでしょう。考えただけで悲惨です。

環境は変えられる。子どもに必要のない苦しみを味わわせないようにするということは、子どもが発信した言葉を、実現し、世界は自分が変えられると思わせること。それをしなければ子どもたちは無気力になり、創造力を失うのだと私は身をもって感じてきました。ともすれば、「貧困」。しかし我が家にあったのは絶対的な幸せ。世間から見たら「甘い」ことかもしれない。でも子どもにとっては自分を限りなく大事にされたという経験だけがしっかり残ります。

いまたくさんの方々に出会い、相談を受ける立場になり、学校でのこと、世間の価値観、周りとの比較、適応できない、周りと違うという悩みを感じてしまうことがまだまだたくさんあるようです。その時に、世間の価値観と違う方向に行くことを怖がる大人が多いのですが、そこは決して「世間」や「学校」を基準にしないこと。今目の前にいる子どもが、「何を感じているのか」を中心に、環境や周りを整えること。安心できる環境を整えてから、子ども自身に身につけてほしい様々なことをとことんやらせていくこと。

長くなったので、次回はどうやって集団に入ることができるようになっていくのか?をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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櫻井育子(さくらいいくこ)
生涯発達支援塾TANE 代表(コーディネーター)

「違いは魅力」をテーマに、子どもから大人まで特性を活かしてのびのびと発達するための、アセスメントとコーディネートを行う。
 東北福祉大学福祉心理学科を卒業後,発達障害の子どもたちと出会い、宮城教育大学の大学院で障害児教育を学ぶ。2003年に「NPO石巻広域SSTの会アドベンチャークラブ」を立ち上げる。小学校,特別支援学校の教諭経験後,2016年に退職。生涯発達支援の重要性に気づき「生涯発達支援塾TANE」を主宰。書道塾taneは「誰でも調子に乗れる書道」をモットーに石巻、仙台、各地で移動開催中。TANE相談室も定期開催中。