「特別支援教育支援員」という仕組みがある。詳しくはリンクを見てもらえば分かるのだが、特別な支援の現場を見守る大人が教室に入れるよい仕組みに思える。
しかし、通常学級や支援学級で配慮が必要な子どもたちに対し、補助的な役割を担うという形ではあるが、具体的に支援が分かりやすい子どもたち(生活の介助等)だけではないのだ。特に発達障害等の子どもたちの場合だと、その行動の理由について理解し、特性を見ながら支援をしていくということは非常に難しいのではないだろうか、と感じていた。
当然ながら、「支援員」の仕事の重要性は高い。だからこそ、それは子どもにとっても重要な「資源」となるわけなので、専門性は当然のことだが、仕事内容に対する報酬も然るべきものでなければならない、、、と感じているのだが、実際はそういう運用ではない。
先生によっては、あからさまに「補助してもらうだけでいい」という態度になっていたり、「連携」どころではないという現状もあるようだ。もちろん、「担任やコーディネーターと協働して行う」のが当然である。が、子どものための支援員なのだから、支援員が持っている情報を指導に生かすことや、学級運営にも関わることだってできる存在にしなくてはならないと思う。
ああ、そういえばスクールカウンセラーという制度が学校現場に入るときにも、「連携が取りにくい」だの、「先生以外の人が学校にいるのはちょっと」だの、なんだかなあ、という声を聞いたことがある。とかく学校というのは閉鎖的だ、というイメージがあるが、全体的な印象はあまり変わっていないのだろうか。
もちろん、連携がとれていて、よい運営になっている学校だってある。これはその先生と支援員がうまくいっているケースで、もはや人間関係がうまくいっててよかったね、という、仕組みでもなんでもなく、先生のコミュニケーション能力頼りになっている。
今日の研修では、支援員のみなさんの日々の感覚を大事にしながら、「何を支援すべきなのか」ということに切り込んだつもりである。
私たちは、「立場」で生きてしまう。「先生」だったり、「親」であったり、「子ども」であったり。立場や役割がないと、なかなか自分の存在を確認できないために、本来の「自分」はそんなことを考えていないのに、「話を聞かないといけません」と子どもに対して「先生の立場」から押し付けてしまったりする。
「なぜそれを聞かなくてはならないのか」「なぜこれを学ぶのか」。学校という場所が、子どもにとってどんな意味を持っているのかを問うこと、これは実は「立場」のまま生きていては見えないことのような気がする。
どんな子どもにとっても、その場所が心地よくなければならない。それが権利だとしたら。
多彩な子どもたちが、多彩な輝きをするためには、そこにいる大人が輝いていなければならない。そういうことなのだと思う。世界は割とシンプルなのではないだろうか。