今日が特別な日であることは間違いないし、心が揺れることも間違いはないし、それでいて、その人それぞれに心の揺れる日はもっとたくさんあるわけだし、それがとてもたくさんの人に影響したという日、という認識でいる。どう言葉にしてもとても伝わりそうにない感覚もある。
「忘れない」という気持ちも、「忘れたい」という気持ちも同じように大事だと思うし、「がんばろう」という気持ちも、「がんばらなくていい」という気持ちも、実は根底では、「あなたもわたしも幸せでありたい」という願いの部分では同じだと思う。
そういえば、2012年に出版された「家族心理学年報」に、「発達障害がある人とその家族への支援」というテーマで文章を書いていた。ちょっと忘れていたのだが、それはあまりにもドタバタとゴタゴタと記憶が飛ぶような9年間であった証拠(単に忘れっぽいだけ)だ。
家族心理学会に入っていたのではなく、アドベンチャークラブ(発達障害のある子どもたちの遊びとソーシャルスキルトレーニングの場)を通してつながりがあった先生方との出会いが大きい。そういえば、あのときに一気にいろいろな人と出会ったのだと思う。
当時は石巻支援学校にいたので、交代で避難所運営と年度末の処理と家庭訪問と地域の避難所回りと遺体安置所を回る。当時見聞きしたものは書ききれないので割愛する。
毎日よく分からない日々が続き、あるときアドベンチャークラブで最年長で、専門学校を卒業したが就職できず悶々としていたはずのYくんが、「アドベンチャーのみんなは無事ですか」とショートメールをくれた。「実はまだ安否確認も全員取れてない」と言うと、今までただ自分の好きなことしか話さず、一方的だった彼から、「僕にできることがあったらします、言ってください」と返ってきた。
自分のことと、学校のことと、よく分からないものに振り回されていた私を救った一言はそれだったのかもしれない。他者を思う気持ち。年齢も違う、月に一度くらいしか会っていない、アドベンチャークラブのメンバーを彼は「仲間」と言い、その後、戦隊ヒーローの言葉を用いて「ヒーローは、窮地に必ず仲間を助けるものです」と当時を振り返る。
「震災時のケア」などと言われるが、重要なのはそれ以前(日常レベルで)の関係性が重要なのだ。障害の有無に関わらず、「自立的な関係を作れるコミュニティ」は大事で、一時的には「支援する−される」の関係にはなっても、やはり双方向の信頼関係が助けになる。彼の一言もあり、2011年の早い段階でアドベンチャークラブは遊び場を再開し、できる支援をできるだけしてきた(本当にささやかだった)。その内容を記したものである。
あらためて読み直し、とても拙い文章なので、編集委員の皆さんの顔ぶれを今更ながら確認して恥ずかしくなった。なんと団士郎先生もいらっしゃった。当時は全然分かっていなかった。(そういえば、この家族心理学会主催の勉強会にも発表しに行ったのだが、京都だったのだ。)
せっかくなので、一部を抜粋したものを掲載してみる。
こんなエピソードもある。現在は特別支援学校に通う女子生徒だが、震災直後は地域の中学校に避難をした。津波の状況も飲み込めず、非常事態であることだけは察していたが、夜になっても帰れないこと、周りの騒がしさに対して少しずつストレスがたまり、夜に大声を上げることもあった。しかし、地域で育ってきたという基盤が強く、周りの大人や子どもたちの理解を得ながら、疎んじられることもなく避難所の中で過ごすことができたという。母親は、「この子が有名人でよかった」と言っている。このことが示しているのは、いかに地域に、障害のある本人が根ざしているかが重要かということである。ともに学び、ともに育ってきた間柄だからこそ、多少の大声にも他の人が我慢をしたり、ときには笑いに変えてくれたりという温かいサポート体制ができていたのである。(4 環境を整える)
そこで、家族の心理的な安定に最も重要なことは、コミュニティの確立である。コミュニティが築ければ、発達障害のある本人と家族のストレスは軽減する。また、その状態で集団参加できる環境が整えば、適切なソーシャルスキルの獲得も可能である、しかし実際に仮設住宅にいる場合や、コミュニティが変わってしまった場合においては、アドベンチャークラブのような団体が彼らのコミュニティとなり、居場所の提供と遊び場の確保、保護者の情報交換の場として存在していくことが有効であると考えている。また、一つの団体ですべてを行うことは難しい。たくさんの団体とつながりを作りながら、資源を有効に使い、支援していく体制づくりが必要になってくるであろう。本人、そして家族に寄り添いながら地域の力を強めていく活動を展開していくことが理想的である。今後、各団体に必要なことはコーディネート力、ファシリテーターとしての役割ではないかと考えている。(6 今後の支援の方向性)
当時、支援学校の教員だった人間が、何を偉そうに言っているんだろうという感じである。
そして結局、私はこれを書いた5年後に教員を辞めると同時に、「コーディネーター」という何をしているのか分からない仕事を勝手にしているという現在。震災でいろんなことが変わったが、それは決して悪いことだけではない。それも事実。それぞれに、たくさんの事実があるだけなのだ。
「災害支援と家族再生」家族心理学年報30周年記念特別号/金子書房
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