今日は登米の奏海の杜にこま〜るにて、研修会。テーマは「性」について。にこま〜るではいま「たいせつなじぶん」というプログラムを作って、毎月1回子どもたちと「性」のことや「心」のこと「体」のことを学ぶ時間を作っている。
障害があるからこそ丁寧に、分かりやすく、彼らに理解できるように伝えたり、機会をたくさん作りたい。なかなか学校でも踏み込んだりじっくり時間をとって教えることができなかったりする分野である。できる限り多くの場面で大人たちが真剣に伝えるべきテーマだと思うし、子どもたちにとっては最も身近な「第3の大人」である放課後等デイのスタッフは、大人になるためのキーパーソンであるとも言える。
とくに、障害のある子どもたちの発達はそのペースがゆっくりやデコボコがあり、「友達同士で情報交換する」ということ自体が少ない。性の情報は、「正しい」か「正しくない」かさえも判断できないままにネットでは垂れ流しである。そこで、支援者として必要な心構えや、保護者との連携などでとても悩みの深いテーマである。今回は3つの事業所が一緒に学ぶいい機会となった。
基本的な考えとしては「性教育=人権」であること。そこをまずはおさえておかないと、あらゆる指導が「禁止」や「よくないこと」、「問題行動」となってしまう可能性が多い。障害のある人の性そのものをなかったことにしようという動きは、実は身近な人(家族)の方によくみられる。いつまでも子どもだと思いたい気持ちもわからなくもない。しかし、身体はいやおうなしに変化する。かわいいと思っていた声は変化し、かわいいと思っていた体からは毛が生えてくるのだ。野太い声の青年に、まるで幼い子どもに話すかのように「○○ちゃ〜ん」と声を掛けること自体、大人としての彼を否定していることになる気がする。(とはいえ、付き合いの長い青年には、ついわたしもちゃんづけしてしまうことがあり反省している)
さて、そんなたくさんの難しさを抱えながら、日々孤軍奮闘しているのが家庭でもなく学校でもない、放課後等デイサービスであり、ある意味では「遊び」「居場所」の機能を果たすがゆえに、彼らが遠慮なく「素」の状態をさらけだすとも言える。そうなると、学校では抑えていた衝動が出てみたり、悪ふざけしてみたり、暇だなと思うとちょっと性器にタッチしちゃったり、気を抜きすぎて脱いじゃった、とかいろんな事件が起きたりもする。
そのたびに、どう接したらいいか、どこまで教えたらいいのか、など悩んでしまう。サードプレイスとはある意味ではカオスになりやすい。そしてそれぞれのスタッフの裁量もまた、ばらつきがあるし、学校のように学習指導要領があるわけでもない。今回は、ある意味ではそれがチャンスでもあり、「まじめに性のことを一緒に考えられるチーム」として、放課後等デイ(あるいは児童館等のサードプレイス)のスタッフが意識を高めていくことの意義を感じた。
「だれがやるか」「いつやるか」それは、気がついた人が、気がついたときからやったらいいと考えている。なぜなら子どもたちは成長を待ってくれない。いつか大人になったときのことを一緒に考えてあげられる大人が多くいたら、ちょっとは生きやすくなるかもしれない。
「自立」なんて言葉は難しい。それよりも「どうやったら生きやすく生きられるか」ということでいいのだと思う。彼らの人生の中に、少しでも身体と心が喜ぶ瞬間があればいい。そういうふうに考えれば、マスターベーションができることも、好きな人がいることも、いつかだれかと体も心も寄せ合う日が来ることも、とてもとても素敵なことじゃないかと思う。
なにかあったら大変、となるのは周りではなく本当は本人だから、周りはありとあらゆる可能性に対応できるように知っておく。対処さえできれば、あとは本人の本当に望む幸せを一緒に考えるだけなのだと思う。障害があっても愛し愛されることの喜び、好きな人がいる幸せ、もちろんそれだけではなく仲間と一緒にいる嬉しさも、一緒に叶えていけるような柔軟な世の中になっておくことのほうが、彼らに何かを伝えるよりも重要な気がしてきた。