TANEのコーディネーターの仕事は、決まった内容があるのではなく、「いまここ」に必要だと思われる支援内容を様々な角度からアセスメントをとりながら考えていきます。常に「対象となる方々」と「支援をする側の方々」、さらにはその双方が存在している「環境」「家族」「その他の要因」のようなものも見たり聞いたり感じたり理論づけたりしながら仕事をすることがほとんどです。
青年学級や放課後デイサービスでの活動プログラム支援についても、それ自体が目的でもある一方で、ひとり一人の「日常」がどのように変化し、より良くなるかのためのひとつの手段に過ぎないのです。ですから、その時間内にうまくいったとしても、ある意味ではそれが偶発的なもの、単発的なものであるという可能性も感じながら、その後の、それを含めたその人の「日常」がどのようなものになるのかを考えていくことの方がずっと重要だと思っています。
そういう意味では「続けていく」という地道で、見えないような努力。そして、どんな状態になっても「関わり続ける」という徹底した覚悟のようなものに尊さを感じることが多いのです。
分かりやすく見えやすいものは、その「口当たりの良さ」ゆえにその裏側にあるものを隠すこともあります。素敵な理念の一方で、「もうどうしようもないくらい家族が苦しんでいる行動障害がある、今すぐにでも入所させたい」という家族がいたりする。理念があるからこそ社会には伝わるし、もちろん分かりやすく番組ができたり取り上げられることも増えた気がします。でもやはりまだまだこの家族のような悩み、毎日破壊行動が繰り返されるとか、暴れるとか、そういう問題はたくさんあるわけです。障害の問題ではなくても、学校不適応や、それ以外の差別偏見に苦しむ人たちの数はやはり多いのも現実です。その現実には向き合い続けなくてはならない。
「見える化」され、発達障害の話もだいぶ世間には伝えられるようになっていると思う一方で、本当にひとり一人の「日常」にスポットを当てていくような取り組みができているのかということはまた別問題なのではないかとも思っています。障害者という枠組みで捉えるのではなく、「隣のあの人」という視点で日常を一緒に考えられるような仕組みや取り組み方、それが本当は自分も誰かも幸せになるということなのではないか。そんなことを考えていました。
落ち葉を見ながら、懐かしのチェキで写真を撮っているある施設の利用者さんの表情が、本当に穏やかで。この様子自体を言語化して見えやすくすることもすごく可能なことなのだけど、このこと自体を、その人が一番近くにいる人が分かっているということだけで、その人の幸せや日常を支えることができるという本当に小さくて些細なこと。機微なこと。
「本当に大切なことは、目に見えないんだよ。」
そういう台詞が今までふわりと自分の中にはありましたが、この仕事をしていて、「でも見えないと分からないんだよ。気づけないんだよ。見えないのは、していないのと同じことなんだよ。」という言葉も聞いたりしました。やはりそれは違う気がします。
禅の言葉。無功徳。自分のものさしで生きていれば、誰が見ていなくても、「自分」と「その人」が共有した体験は事実であり、それは他の人からは「見えない」ことだったとしても、その人の日常の中で、少なくとも一瞬でも、「楽しい」「幸せ」と感じる瞬間を共有できたこと自体が素晴らしいのだということ。日常は「何かができた」ということではなく「感じた」という体験が支えていることもあるということ。
「誰かと関わり続ける」という仕事をしている人たちが、その小さな取り組みの素晴らしさに気がついていけますように。