「少子化対策」という言葉、「子育て支援」という言葉から取り残される感覚になる人たちが増えている。あたりまえだが、すべての人間が「夫婦」になり「親」になるわけではない。動物界から見れば信じられないことなのかもしれないが、進化の過程の中で人間は社会を形成し、高度と言われる成長を遂げた結果、一人でも生きられるようになったとも言える。一方で、このまま進んでいくと確かに人口は減少するのかもしれない。いや、これだって減り続けると決まったわけではない。
そのように考えていくと、新しい社会の作り方が必要ということである。実際にすでに「拡張家族」という状態で住み、血縁ではない共同体を家族として一緒に子育てしている例もある。昭和の大家族から、核家族へ、もはや現代は「拡張家族システム」をスタンダードに考えていくことで現在抱えている社会問題の一部は解決するのではないかとも感じる。
そもそも「少子化対策」も「子育て支援」も、「夫婦」「家族」ありきの考え方のものしかない。産みやすく育てやすい環境、金銭的なサポート、そこに「親未満」や「親予備軍」への対策はないし、産まない人間に対する世の中のプレッシャーさえ感じることさえある。
私も子どもはいないが、「親にもなったことがないくせに」という言葉や表現を浴びたという経験はない。発達支援などというものを専門にしてきたということもあるが、自分に子どもがいないことについてはあまり深く考えたことがなく、むしろ子どもがいない大人が子育て業界に関わっていくことのメリットもあるはずだとさえ思ってきた。なので5歳から関わっている自閉症のある青年が20歳になっている今、彼らはみんな自分の子どものような気分になる。知人たちの子どもはみんな自分の子どものような気分にもなるから、私は子だくさんだし私の母は孫が多い状態である。
これを「寂しい人生」と言うのであればそれはそれでかまわない。河合隼雄の言葉に「あんた花してはりまんの、わて河合してまんねん」というものがある。存在というものが花をしている、つまりこの世の中にあるものは「存在」というものがたまたま、花になり、人になり、自分になっているのだとしたら、「あなた」も「わたし」も差のない「存在」である。学生の時にこの言葉に出会い、はっとした。貧乏で苦学生だった私は、なぜあのひとは、という感覚にとらわれていた。しかし、そうか、それならば私というものが存在するための何かなども、割り振られたもの、自然の一部のようなものかもしれないと思った瞬間があった。だいぶ跳躍した感じ方かもしれないが。そして最近またこの言葉に出会い、ますますそんな気がしているのだ。
子どもを持つ人生と、そうでない人生。それだけで分断される社会は「多様性」なんてものとはほど遠い。そのような「分断された気分になる問題」は、伴侶の有無、子どもの有無、障害の有無、介護の有無、持ち家の有無、財産の有無、いやいやいや、もう数え上げたらきりがない。「持つもの」「持たざるもの」のような分け方は、「シェア」という概念であっという間に覆されれる。それはすべてにおいてである。
しかし、そうは言っても分断しようとする旧勢力のような暴力のような思想もあることも否めない。むしろ、その旧勢力とも言える圧倒的多数(と感じられるような悪意のない人たち)は、この世界の転換を「知らない」だけなのである。
分けているものを探っていけば結局一つになっている。子育てはすべての人間がかかわってよい。そーしゃるな子育て。これがじわじわと楽しくなっている人たちが、どんどん拡張しはじめているのも実感している。