そもそも福祉だとか教育だとかに興味があったわけではない。絵を描きたいとか、本作りたいとか、でざいなーになりたい、だとか喫茶店がやりたいだとか、頭の中にはやりたいことだらけの子ども時代で、高校までそんなものだった。
ただ、近所には脳性まひのお兄さんが住んでいて飲みに行ったり、遊んだり、いつも隣の席には特殊学級の子がいたり、不良と呼ばれるようなお姉さんが身近にいたり、まあ多様性あふれる環境で育ったのは間違いない。
彼らはわたしには、身近だったし自分自身も学校に適応しきれなかったから、そういうふうに、いろんな人がいることがあたりまえだと思ってきた。
高校時代はおもしろくてやり出した施設ボランティアだったが、えらいね、とか、福祉関係なんてよくやるね、とか、聞いた途端に、大変ね、えらいね、と言ってくる方々が多くて辟易した。
たしかに彼らと過ごしている時間は長いし、しかしだからといって、支援しているのではなく、一緒にいたいわけで、やはり、好きなだけだったと思う。学校帰りに自転車で施設に走り、利用者の方々に「じょしこーせい」と呼ばれて、可愛がられ、一緒に部品作りに励んだ。
原点はそのあたり。だから、ただ一緒に楽しみたいだけだ。一緒にいて、楽だった。
この感覚を説明すればするほどいまいちわかってもらえなかったのだけど、やっと最近、関西旅に出て、やっぱりこれでよし、と納得できるようになってきた。
そんな中でソーシャルマジョリティ研究に出会うのだが、そうそう、その感覚。あちら側の研究をこちら側からするという不平等感。いかにも、困っている方々にこんな手立てをしましたよ、ってな強気な感じが嫌だったからこそ、すばらしい視点。
マイノリティから見えるマジョリティの研究によって、ああ、大多数の人間はこんな感じなんだー!とつかめる。すると、あれ、わたしってどっち側?となることもある。
つまり、対立構造なんかではないものや、仲間分けしなくてよいものを、単に制度とやらで分けただけなので、そこはクールに制度で淡々と処理しよう、という部分と、心情的な障害という言葉への先入観によって、かなり複雑な差別構造になっている。
「少し発達が遅れてますね」という言葉が、「障害ありますね」に聞こえる。で、がーん、となるわけだが、そもそもその言葉自体がイメージするもの、概念が否定的だからこそ受けるショックなのだ。
障害がある子、障害がない子、に分けられる感じ。この、なんとも言えない違和感。スペクトラムっていい言葉だったんだけどなあ。なかなかそうはいかない。
うーむ。
「うちの子、障害がないんですって。将来不安だわ。」
「そうね、将来どこでつまづくかしら。それに比べてうちは、もう自閉症スペクトラムって言われたから、楽よ〜」
って会話ができたらな。
いえ、冗談とかではなくて。
みんな知ってることとして、いろいろな脳の仕組み、遺伝子のちがい、身体の育ち方のいろいろ、が、小さいときから分かったらなあ。
なんてことをずーっとぐるぐる考えている。