「対等な人間関係」というものは存在するのだろうか。と考えながら、いろいろな現場での関係性を調整するという「コーディネート」をしている。
以前も書いた気がするが、自身は何をしているのか、というと傍目から見たら「何もしていない」のだ。つまり、その事業者、管理者、支援者、保護者などの問題解決のための関係性の微調整、情報提供、具体的な支援の提案をするというのが仕事になる。
昨日、ある支援学校の専門性向上研修会という先生方のための研修の講師をすることになり、恐縮ながら(お世話になった先生方がたくさんいるのでやや恥ずかしい)授業も見学させてもらった。
特殊性のある学校なので、就労や生活面のサポートが充実している。とはいえ、支援学校である。特性豊かな生徒たちがたくさん学んでいる。しかし、学習での言葉がけなどは、本当に生徒は理解できているだろうかと疑問に感じる場面も正直なところあった。
こうして教師という立場を離れてあらためて学校という構造を見てみると、「学校の先生」という立場の存在が社会の中でやはり特殊なものだなあ、とも感じられた。「先生」は「先生」になるように仕組み化され、それに違和感を感じなくなり、結果、「先生的態度」というものを作り上げていくのではないだろうか。
先生「が」教える、という仕組み。
先生「が」正しい、という情報。
教育はそもそも、そういうことではないはずなのだが、旧来のあの黒板と机の配置が、そうさせる。
教壇に立って、生徒という小さな存在から、特に何もしなくても「先生」と呼ばれ続け、「分かったか」と言えば「はい」と返事をする関係を続けてきた人というのも一定数存在するのもこの現場である。ついでにいうと、そういう現象自体が、自分のアイデンティティになってしまうという問題もある。
これは、社会の中の一員として、「職業としての先生」というものを理解しているとまた意識は変わる。
社会を学び、正しさとは何か考えるために、一緒に考える身近な人が、「先生」という仕事なのである。そのことを実践し続けている素晴らしい先生にも、たくさん出会ってきた。
今回、発達特性に応じた支援のための障害疑似体験の演習を行った。わからない、をわかりあう、ということは大事だ。
専門性とは、発達障害のことを知っているということでも、教育方法を知っていることでもなく、「謙虚に相手と対等な関係を築いて一緒に居られること」ではないかと思う。もちろんそのために必要なことが、「アセスメント」であり、さらに、自分自身の感情理解、特性理解もできていること。つまり双方向のアセスメント(アセスメント2.0視点)があること。難しくなったが、まあとにかく、大人が「自分の機嫌を自分でとれる」というのは大事だ。
福祉現場でも、教育現場でも同じである。その態度でいる大人が増えることで、本当は何よりも「社会」の態度がその方向に行くはずなのである。まちの人々の感覚で、教室の中が育まれていくこと。教室での学びがそのまま、働くという現場での安心感につながっていくことになれば本当に「境目のない」状態になる。
社会は厳しいからという「伝説」を守って、「上下関係」という厳しい態度を教室で再現するということをせずとも(教員時代に、先生は若いから生徒にナメられないようにね、というおよそ学校とは思えない発言をなさった方がいたのを今だに根に持っているしつこい私である)すべての人がその特性に折り合いをつけながら「対等関係」を維持し、職業選択または役割選択をしていくことを目指すには、どこかでそのサイクルを止めなくてはならないような気がした。