大好きすぎて、もうボロボロになってしまった本。出会ったのは高校時代だった。主人公の男の子の、鋭い感受性。「あばずれ」呼ばわりされている主人公の母の歯切れの良い女らしさ。登場する人たちが、「自分なりの考えとルール」をちゃんと持っていて、それが良くも悪くも本質的な問いになっていて、「あたりまえ」と思わされてきたことをちゃんと、「そこでつまづいていいんだ」と、自分に自信を持つことのできた本だった。
最近では、「ぼくはイエローで、ホワイトデ、ちょっとブルー」を読んで、同じような気持ちになった。ぜひ、これを読んだ方は、山田詠美の「僕は勉強ができない」も読んでほしい。特に、「眠れる分度器」という短編が好きだ。
なんというのだろうか。これらの本を読んだ時の感覚。スカッとするのだ。あたりまえに、差別意識や特権意識や優越感みたいなもの(いわゆる、きれいとは言えないような意識)を誰しもが持っているのに、大人はまるでそれを持っていないかのように振舞ったり、ひた隠しに隠そうとする。それを、いとも簡単にえぐり出してくれるような。
私は障害のある人たちとよく接しているが、彼らに対して偏見なく接してきた人をあまり知らない。みんな少なからず、抵抗や、不安や、いろいろな「複雑な感情」を抱くのだ。それは、ある意味ではあたりまえだと思うし、私自身、全く偏見がないのか?と問われたら、明確に答える自信などない。
「かわいそう」という言葉がある。これが人を傷つけることを、言われたことのない人は知らない。
みんなの中に埋もれてしまう恐怖と、みんなの外にはみ出してしまう恐怖の、表裏一体の感覚を、子どもたちは持っているような気がする。
「僕は勉強ができない」の主人公や、「ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー」の息子のような自己肯定感があれば、「みんなと違う自分」がプライドにさえなる。
そう、大事なのは「自己肯定感」だ。手垢がついて、擦り切れてしまいそうな言葉だ。「自分でいい」と思える力のことだ。特権意識だろうが、優越感だろうが、多少醜い感情でも、それを「持っている」と気がついた上で、つまり、自分は何か違うかもしれない、と知った上で、「それも含めて自分でいい」と思える力。
差別してはいけない、こんなこと思っちゃいけない、私は全く悪いことなどしていません、なんて政治家を誰も信用しない。それよりも、「差別してしまう自分」に気づくこと、「自分って特別」と言ってもらいたい自分にOKを出せること、そしてそのこと自体を、オープンにできることの方がよほど重要だ。
分からないことには「分からない」と言うこと。
自分とは違う考えには、「わたしは違う」と言うこと。
その小さな積み重ねが、本当に大事なことだ、とあらためて考えた。