「違い」を認めるというのは一体どういうことなのか。そもそも「違い」とはなんなのか。このささやかでしつこい作業のくりかえし、その日本語を通訳していくような感覚こそ、わたしが好きな作業なのかもしれない。

最近の相談で、職場内で特性豊かな人をどうサポートしたり、関わったりしたらよいのか、同時に彼らの特性をどう周りとうまくやれるように(わかってもらうように)働きかけていったらいいものか、また、互いに自己理解を深められるか、というものである。すべての会社のトップの方がこういう視点に立っていたら、ダイバーシティ構想が進むのだと思えた瞬間である。

私は特別支援教育士という立場ではあるが、医師でもなんでもないので「診断」はできない。そして支援体制(むしろ認め合い)がうまくいっている場においては、特性は単なる「他者との違い」であって、「障害」ではない。大人になるまで気がつかず、気にされずに生きてきた場合には、職場での方針や人間関係という環境変化で初めて、「おや、なんか違う」と気がつくことはよくある。

なぜ、大人になって気づくのか(あるいは気づかれる)というカラクリに関しては、「違ってはいけない」という価値観が学校で培われ、まるで気配を消すように「ふつう」を演じる(演じやすいしくみになっている。言うことを聞けばよいので)からではないか、と推測する。守るべきルールと基準があるので、はみ出しにくい子もいる、という逆説的な現象も起きる。ほんとは気づいた方がいいのにな。

「他者との違い」を「なくす」という方向に教育が向かいすぎていないだろうか。
「適応できるように」というのが第一目的になってしまうと、教育の本質は失われる。その「適応できるように」という視点がそのまま、社会そのものの視点になっている。だから生きにくい。ただそれだけである。

教育の場でも、職場という場でも問うことは同じである。この場の目的は何か、ということ。それに向かってさえいれば、方法はそれぞれのやり方でいいはずである。また、すべての人が同じ「やりがい」というものを持っているわけではない。

例えば、子どもたちの学習風景。聴覚記憶の優れた子はノートを取ることをせずに聞いていても学べるだろうし、授業そのもので学ぶことをせずとも、学びが広がるタイプであればフィールドワークのような学びを求めてもいい。本質は、「自ら学べる子」だったはずだ。人の顔を見て話を聞くことや、行儀良く座って授業を受けることそのものではない。

例えば、職場。「このチラシを作ることそのものにやりがいを感じる」という人もあれば、「企画したことでこんなに喜ばれたのが嬉しい」という人もいる。同じ職場でも自分自身がどの部分の役割を担うことに喜びを感じて仕事をするか、それ自体が「違う」ということが分かることそのものを、「適材適所」というのではないだろうか。

目的はひとつにしておくこと。追求すべきは「目的」であって、「方法」は多様であっていい。それを試せる絶好の機会、それが学校ではないのだろうか。「いろんな学び方があっていい」「いろんな役割があって成り立っているんだ」、そして、自分自身の発達や特性は、こんなに豊かなんだと安心して気付けるのは、社会に出る前の方がいいだろう。

もちろんここでも、そもそも、就労そのものの概念の捉え直しも必要だと思う。卒業間近のプレッシャー、やり直しができない社会さえなんとかなれば、別に学校が全てを担う必要はない。転職=学びと考えられるくらい、豊かになればいいだけなのだ。

このあたりのことを大学や専門学校などの機関ではどうとらえているのだろうか。社会と最も近い領域、ある意味では社会人とのつなぎめの教育現場で何が起きているのか、今回は絶好の機会を得たので、個人研究として取り組んでいければと思っている。



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櫻井育子(さくらいいくこ)
生涯発達支援塾TANE 代表(コーディネーター)

宮城県石巻市出身。特別支援教育士。書道師範。東北福祉大学福祉心理学科を卒業後,宮城教育大学の大学院で障害児教育を学ぶ。インクルーシブ教育の研究をしながら,ソーシャルスキルトレーニングの団体で発達障害のある子どもたちと出会う。2003年に石巻市で,任意団体「NPO石巻広域SSTの会アドベンチャークラブ」を立ち上げる。小学校,特別支援学校の教諭経験後,2016年に退職し,「生涯発達」の視点から教育,福祉を考えるコーディネートチーム「TANE」を主宰。ひとりひとりの違いを楽しんで生きる社会の実現を目指しています。

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