「よく見なさい」と、先生や親はよく子どもに言う。実はとても分かりにくい指示だなと思う。「よく」というのはなんだか分からないし、「見なさい」と言われなくたって、見てそうしたわけで、子ども側としては理不尽な指示である。
先日も「漢字が苦手」という子が書道をしに来た。もじもじしていて、なかなか書こうとしない。「なんかこう、こっち側がひょろひょろってなって、土とかついてて、こういう字を書きたい」と言うので、「もしかしてこの字?」と「遠い」と書いてみた(我ながらよくわかったなあと思う。こういう感覚だけでここまでやってきたんじゃないかとすら思う)。すると、そうそうそれそれ、と喜んでくれた。「先生によく直されるんだ」と言う。どうやら漢字練習帳やノートに書く文字を直されることが多いのだとか。
一度目に書いた手本では、どうも複雑に見えたらしい。そこでゆっくりとつくりの部分を書いてみると「ああ、こうなってるのか」と、今度は堂々と真似をした。「よく見たら書ける」というので、それは「漢字が苦手とかじゃないよ、むしろ丁寧でいい字だよ」と褒め称えると、ちょっと嬉しそうに笑った。
漢字を覚えたての小学生もいるし、漢字には縁がなかったという(!)障害のある方々も来ているし、面白い字を書きたいという大人の方も来ている。読めるか読めないかに関わらず、いろんな字の見本を用意していると、それを楽しんで書いてくれる。もちろん大人の方々にも、「この字を自分なりにアレンジして書いてね」と無茶振りをしたりして置いておくようにしている。読めるか読めないか、は、あとからの問題で、「なんか難しそうだから書いてみよう」というチャレンジ精神は、心理的な安全がなければ不可能だ。
最初は横の線が足りなかろうが、なんだか形が崩れたぞ、などは見逃し、本人が満足したらOKということにしている。ところが、何度かやっているうちに、本人の中に変化が起きてくるのだ。それは、自分の書いたものとお手本を、じっと見比べるようになる瞬間。今までは「書いた、終わり!」という感じで一回ずつ書いては「ほら見て!」という表情だった人が、あるときに自分の書いたものをじーーーーっと見つめて、「なんかちがう」という表情になり、足りなかった線を付け足した。その後は、自分が納得いかないと何回か「やり直し」をするようになっていくのだ。
「よく見て書きましょう」「きれいに書きましょう」「なんども練習しましょう」などは、大人が言いたいだけの「セリフ」かもしれない。「ちがうな」と気づくこと、「こう書いてみよう」と工夫すること、そして上手くかけた時の喜び。これが本来の「まなび」かもしれないと思う。
文字を書かない子もいる。「絵を描きたい」「こんな用具を使ってみたい」「こんなふうに表現してみたい」ということがどんどん出てくる。ここではすべて自由だ。だから何も制限はしない。だからやめたくなったらやめていい。休憩もそうだ。場とはこれでいい。片付けも準備も、少しずつ器用になってくる。
「こんなことをしていて何になるんだ」「文字を基礎から教えないのか」という声も聞こえてきそうだ。(が、驚くほど聞こえてこない!)実際には、筆というとても書きにくい筆記用具を使えるようになるためには、かなりの手の力のコントロールが必要になる。つまり、思った通りに書けるようになるには、微細な手指の動き、加えて全身の力を筆先に集中すること、さらには腕の力でスピード感のコントロールをするなどの統合された動きが必要になる。なので、一見無駄に見える「ラクガキのような状態」こそが、まさに感覚統合そのもの。無理なく力を入れたり抜いたりできるように発達していくのだ。大人でも、普段力を抜けずに緊張しながら生きている人の字はやはり力が入りすぎるが、墨遊びをしているうちに、少しずつ肩の力が抜けてくることがある。
不思議なほど、自由な状態で書いているうちに「受け入れる」という状態も整ってくる。いままで自分のやり方にこだわっていた方々も、違う筆、違う紙などをすんなりと受け入れて書くようになる。そのことで、実生活上でも頑なさがなくなり、穏やかになったり、文字でのコミュニケーションがスムースになったり。
目的ありきでやっているわけではなく、「誰でも調子に乗れる書道塾」であり、「〇〇ができるようになる!」とか、そんなことはうたいたくないし、対象者も決めたくない。もしかしたらそういうふうに絞った方が見つけてもらいやすいのかな、と思うこともあるが、なんかそういうことじゃない気もする。
しかし一方で、書道という場を通しての「見る」「書く」「受け入れる」、さらには感覚統合が可能になるという試みであることも、こうして密やかにつぶやいていこうと思う。
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