まさに大人の部活動風景

「部活何入ってるんだ」と言われて「美術部です」と答えたら、「なんで運動部に入らないんだ」という理不尽な問い。中学も高校もそんな感じ。「バレー部です」と答えた人に「なんで文化部に入らないんだ」とか言われた人って絶対いないんだろうな、と思った。

「運動部>文化部」という差別。学校に「〇〇大会優勝!」とかの垂れ幕への違和感(嫌悪感)。大学時代はスポーツ推薦で入学した人たちの授業態度に嫌気がさして、これが私立か、とか毒づいた時代もあるし(もちろん私が運動が苦手だというコンプレックスもあり)、体育の先生に理不尽な叱られ方をした経験なんかもあって、いまだに体育会系というものに苦手意識を感じる。もちろん素晴らしい方々にも出会い、さらには今になって、彼らの中にはもしかしたら、学習権を奪われてきた人たちもいただろうことや、言語理解が困難だった方もいたのかと思いを馳せるようになってきた。

最近出会った子どもたちの話。「学校は勉強するだけのところじゃないから」と部活が救いになってきた子、「運動ができるから我が高校へ」と決まったのに病気になり部活を続けられなくなったら途端に居場所がなくなってしまった子、いずれも「学ぶことが楽しいなんて教わらなかった」と言う。そして学習障害があったことで、さらに自分に合う学びを身につけられないまま、「できない」ことを言えないまま。

「部活動」に対する議論が増える中で気になるのは「部活が救いになる子もいる論」だが、それは前提がおかしいのだ。そもそもすべての子どもたちが「学ぶことが楽しい」になり、すべての子どもたちの能力が生かされている場が保障されるべきなのだ。しかもそれは、すべてを学校が担う必要などない。そう考えると、部活動など学校には必要はなく、むしろ生涯教育として部活動はすべての大人に必要なのではないかと思う。

競争心やら、根性やら、そんなものは聞き飽きた。あまりにもすべての機能を学校が請け負い過ぎているのだ。授業だってそうだ。毎晩ヘトヘトになって教材研究をして、手作り教材を使っていい授業と言われ、結局授業中に一番「活動」しているのが先生自身という状態に陥ってしまう。

恐ろしいほどに「自ら学べない」子たちが増えている印象だ。学習指導要領が何度も変わっての、今なのに、である。あるいは格差が開いただけだとしたら、より一層悪い。

教員の資質を高めるだとか、研修管理するだとか、そんなことより、「余裕のある大人」という存在が子どもたちには必要だ。教員時代は先生の役割に疑問を感じて適応できていないし、カウンセラーという役割になったが、いまおそらく私はカウンセリングをしていないような気がする。いま目の前の子どもたちが必要としているのは、間違いなく「暇な大人」「雑談できる大人」だ。だからこそ、縛り付ける部活動ではなく、ユースワーク、たまり場、地域のサークルというサードプレイスにつながれることが何より子どもを救う。そのためには、地域につながっている大人の存在が不可欠だと、あらためて感じている。

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櫻井育子(さくらいいくこ)
生涯発達支援塾TANE 代表(コーディネーター)

宮城県石巻市出身。特別支援教育士。書道師範。東北福祉大学福祉心理学科を卒業後,宮城教育大学の大学院で障害児教育を学ぶ。インクルーシブ教育の研究をしながら,ソーシャルスキルトレーニングの団体で発達障害のある子どもたちと出会う。2003年に石巻市で,任意団体「NPO石巻広域SSTの会アドベンチャークラブ」を立ち上げる。小学校,特別支援学校の教諭経験後,2016年に退職し,「生涯発達」の視点から教育,福祉を考えるコーディネートチーム「TANE」を主宰。ひとりひとりの違いを楽しんで生きる社会の実現を目指しています。