驚くような事件があった。共通テスト中にテストの写真を撮影しリアルタイムに解いてもらうという不正行為。計画的な上に、巧妙である。カンニングもここまできたのか、という感じ。思いついて実行したこと、そして明るみに出るまで、登場人物のいずれにも、なんというか「必死さ」しかなくて、いたたまれない気持ちになったのは、わたしだけだろうか。
報道はさまざまな語り口調でこのような事件を取り扱う。責めるのは簡単だ。明らかな不正行為であるから、これは「悪いこと」である。が。
一方で、大学進学への異常なまでの執着、学歴にこだわる価値観、自分の実力以上にがんばらなければならない競争社会、結果を求め効率よく生きることを優先する価値観、、、。さらにこのたった一度のチャンスで決まってしまうかのような共通テストの心理的な圧迫。受験生を取り巻いている諸々、の一端をそこにみたような、非常に複雑な気持ちである。
学習心理学を学んだとき、とても腑に落ちたことがある。それは「内発的動機付け」という言葉だった。そもそも勉強するのが楽しければ、勝手にやるようになるということだ。当時、塾で学習障害のある子どもたちのクラスを担当したり、「勉強が嫌い」という子の担当をすることが多かったわたしにとっては、この「内発的動機付け」を彼らの中に見つける手伝いをすることが何よりも楽しい目的に変わった。
関われば関わるほど、彼らは「勉強が嫌い」なのではなかった。「勉強ができない」のでもなかった。「失敗ができない」「わかるまでのスピードがみんなと違う」「記憶ができないから忘れてしまう(そのときはわかる)」「文字だけでは想像ができない」などのさまざまな原因があって、それにまったく手助けされていない状況の中で生き延びる術として「勉強が嫌い」「やりたくない」、あるいは学級で妨害行動や問題行動、さらには「学校に行かない」という手段しか残されていなかった。
「勉強がわからない」のはもっと切実だ。「わかるようになりたい」があるのに「わからない」のだ。これに関しては「わかるように伝える」「わかるように教える」「わかるまで伝える」ことだとしか思えない。ところが本当につらいのは、この「わからない」を言えない、言う「隙」がない、言っても取り合ってもらえない、言ってもわかってもらえない、といことが起きているのも事実。教える側が、「わかる人」だとこのミスマッチが起こる。全員が同じように学べていないのにも関わらず、テストは淡々と行われる。点数が取れないのは教えた側のテストでもある、という感覚にはなかなかなってもらえない。
分からない、できない、教えて!わたしが分かるまで!って粘るのは悪いことでもなんでもない。それと、すべてを学力やらテストやらで選抜する意味も、もはや本当にあるんだろうか。
学びたい人が学べる仕組み、それをどう作っていくかという実はシンプルな課題だ。そんなことを真剣に語る時間すらなく、「しかたないよね、それが制度だし」と諦めていくなんてもう嫌だなと思う。先進的な例ではもうすでに「宿題なし」「テストなし」(ただし到達確認テストはある)として完全に「内発的動機付け」による学習をおこなっている公立の学校もある。
そんな話を、次回はつなぎめ講座ライトではするつもりです。