春は苦手。節目が苦手なのかもしれない。卒業式も入学式もわざとらしくて苦手だった。成人式なんぞは意味が分からなすぎて行っていない。結婚式もしなかった(離婚したのでそうした意味でもしなくてよかった気がする)。日常の滑らかな連続が心地いい。だから今日もなんとなく始まってなんとなく終わった。また明日が滑らかに来る。
今、しか見えなくてもいい。見えない先のことを、あたかも見えるかのごとく、「今やらないと将来が」と語るのは、残念ながらまったく根拠がないからやめてほしい。だったら根拠はないけどなんとかなる、と言った方がいい。本当に。
無駄なプレッシャーを背負い続けるのはやめようと子どもたちは必死に教えてくれているような気がする。こんなにも豊かに、こんなにも素晴らしい世界を表現できるのだ。顔色なんか窺わずに、思う存分楽しんでいる。この時間、この空間こそが「自然」なのだと思う(だからルソーを読もう)。
さて、新学期や新入学、おぞましいプレッシャーを与える情報が炸裂するに違いないので、我が母が放った一言が、どこかで誰かの役に立てば嬉しい。
幼稚園中退し、1日入学に行った私に「小学校は大丈夫よね?」とにこやかに話しかける先生に怯えていたら、「そんなのはやってみないとわかりません」と平然と答えた母。今は「小1ギャップ」とかなんとか、それを越えるには、だとか議論されたりしている。そのためにノウハウも出回ったりしていて驚愕。そんな対策しようがしまいが、嫌なものは嫌なわけで、適応することを目標にしたような情報には振り回されないようにした方が健全だよな、と思う。子どもの「なんか嫌」はやっぱりたくさんヒントがある。
何かあればなんとかなるくらい、自分と社会を信頼できることの方が大事。だから遊び仲間は大事。依存先はたくさんあったらいい。心配なんかしないでほしい。子どもたちも、おとなも、笑っていてくれるだけで、本当にもう十分だ。出会えて、また来てね、って全力で手を振ってくれてありがとう。
何にも心配いらないよ、って言える大人が増えることが、本当に豊かな社会だと思う。そう言えるような小さな動きにどんどん加担したい。