きっかけは、相談という場所での解決の難しさから始まった。主訴も明確で、いろんなことが明確で、よく分かっていることなのに解決しない問題というのがあるのだ、ということに気がついた。それが「家族」の問題だった。
発達にいろいろな課題を抱えている家族がいる場合、その家族の構成員の価値観によってその「問題」を「問題」とする度合いや、解決への道のりが異なっていく。それはほぼ子どもの問題ではなく、「この子の問題についてどう感じているか問題」のようなものであった。母親の悩みポイントと、父親の悩みポイントが違ったり、世代間で異なったり、かなり複雑な状況になっていることがほとんどである。「世間」という概念がどれくらいその家族にとって重要な位置を占めるか、などということも絡み合ってくる。
そんなことから、親との面談だけや子どもとのセッションだけでは難しいことについては、「家族コーディネート」、「家族SSTセッション」(ネーミングは適当である。肝心なことは何をするかである。)、要するに家庭訪問をして、「家族会議」のお手伝いをする、というようなコーディネートもしている。第3者が入ることによって、煮詰まっていた親子の話し合いができることや、冷静さを取り戻してお互いの言い分を伝えられるようになる、さらにはお互いの「違い」を明確にしながら話ができるのだ。
発達に特性があるとはいえ、それを障害ということは難しい。とはいえ、家庭の中でぶつかることはたくさんあり、「なんで言ってもやらないのか」「なんで普通にできないのか」「なんで・・・」が両親からどんどん出てくるようになった。そこで、まずは客観的に子どもについて理解すること、本人の特性をしっかりと知ることのために、WISC-Ⅳというアセスメントをとることにした。検査結果を見て、「ああ、これはきっと本人は大変だっただろう」と思われる傾向が見えた。(WISC-Ⅳという検査についての説明は後ほど)
両親はそれをまず事実として受け止め、その上で今まで「なんでできないのか」と思っていた部分を、「自分たちとは違う方法で思考し、判断しているということなのだ」と理解してくれた。その子どものことを完全に理解しようというのは難しいし、不可能だ。しかし、「自分とは違う判断をする生き物のようだ」ということを知ることによって、「どう言ったら伝わるのか」「どうしたらお互い気持ちよくできるのか」という視点に変化した。
もちろんそれは本人にも伝える。「できないからしかたがない」ではなく、「どう言ってくれたら分かる」「ここに困っている」「この時に手伝ってほしい」と言えること。それができないでいると「家族の一員」を担うことはできない。役割を果たす、ということは、実は家族という小さな社会でたくさん練習する必要があるのだと思う。だからこそ、「自己選択」をたっぷりとさせてほしい。失敗してもいいから自分で決める、自分で選ぶ、をしてこそ次の「自己決定」に進むのだ。
家族は本当に偶然のように成立してしまう、不思議な共同体なのだ。知らないもの同士が近づき、子を産み(または産まなくても)、増えたり減ったりする。だから「家族だから分かるでしょ」は幻想だ。愛し合っていようが、腹を痛めようが、伴侶も子どもも個別の存在であることを知らなくてはならない。自分と違うものを選ぼうが、自分の趣味とは違おうが、自分と同じようにできなかろうが、違うのがあたりまえである。ましてや、自分の分身かのように子どもを扱うなどということ、子どもを使って自分の叶わなかった夢を果たそうなどということは笑止千万である。
「発達特性」「認知特性」は、はっきり言ってみんな別物である。子どもの問題の前に、まずは保護者や周りの大人たちが自分の特性を理解することも重要である。そのことは、実は「家族」というものを「幻想」などではなく、それぞれがしっかりと自分たちの「集団」を意識することにつながる。たった一組しかない、自分たちの「チーム」としての家族。そんな風に考えれば、家族コーディネートも、組織コーディネートも同じである。そして、この現代、家族とはもはや血縁などではないということ、もっともっとオルタナティブな家族というものについても、語っていけたらと思う。