そういえば、ここのところずっと、「話を聞く」という仕事をしている。不思議なほどに疲れることはなく、むしろ若者たちからたくさんのことを学んでいる。素敵な感性のひとたちが訪れる。とても敏感で、とても丁寧にものごとを考えている。発している言葉たちには、思慮深さや、傷つきやすさももちろん含まれてはいるが、丁寧に紡ぎ出された言葉を使うことに気がついた。だから話していて心地が良いのかもしれない。

 多くの人が経験しているかもしれないが、いわゆる「雑談」というのは、言葉の本質というよりも「リズム」や「テンポ」などで会話する。こう言われたら、この程度返しておく、とか、本当はそう思っていないけど、とりあえず答えておく、とか。同質性の高い集団では、ほぼ同じ周波数で会話が繰り広げられ、そのテンポやリズムや周波数に合わないと、会話そのものが成り立ちにくく、疎外感すら感じる。とにかく「雑談」が苦手だった私にとっては、いまほとんどの場所で雑談ではなく、本質的な対話を求めにきている若者たちや、コミュニケーションがうまくいかないと言いながらも丁寧に言葉を用いようとする青年たちに出会えること自体が喜びである。

 「まじめだね」と言われるのは、ほんとうはいやだという若者。それは単に、「そう思われたくない」ということだけではない。本来、人間には多面性があり、その人の中にたくさんの「面」が存在し、そのひとつの「面」だけをみて判断されるという、「雑さ」への抵抗だ。子どもたちの言葉にはその「雑さ」に対する過敏さを感じる。丁寧に扱ってほしい。それは、本来誰しもが願っているものだ。

 うっかりした「雑さ」が、心の底から誰かを傷つけることがある。それによって相手を「弱い」だとか言うのは、甚だ失礼な話だと思っている。(が、そういった人がやはり多いのだと思う)だからこそ、すべての敏感な人たちがいまだに生きにくいのだ。そしてあろうことか、その「雑さ」に適応できない自分を責めてしまったりもする。

 「言葉」ができてからというもの、とても便利なそれは、ある程度のものであれば「言葉」で表現が可能になり、共通理解をすることができるようになった。いや、正確にいうと、「言葉というものを通して同じものを指しているという状態は作れるようになった」だけであり、本来、「そのもの」を正しく誰かと共有しているのかということとはまた別の問題かもしれない。「言葉」によって、「共通理解ができるようになったと思い込む」ということには成功した、と言えるかもしれない。

 なんてわかりにくい話をしているのだろう。しかし、わかるわけがない、というのが前提だ。それでもわたしは、わかりたいと思う。それでいいのだな、と思う。そして、できればこの美しい感性がそのまま生かされますようにと、ほぼ祈りのような時間を過ごしている。丁寧に、のんびりと。わたしには、もはやそれしかできない。

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櫻井育子(さくらいいくこ)
生涯発達支援塾TANE 代表(コーディネーター)

宮城県石巻市出身。特別支援教育士。書道師範。東北福祉大学福祉心理学科を卒業後,宮城教育大学の大学院で障害児教育を学ぶ。インクルーシブ教育の研究をしながら,ソーシャルスキルトレーニングの団体で発達障害のある子どもたちと出会う。2003年に石巻市で,任意団体「NPO石巻広域SSTの会アドベンチャークラブ」を立ち上げる。小学校,特別支援学校の教諭経験後,2016年に退職し,「生涯発達」の視点から教育,福祉を考えるコーディネートチーム「TANE」を主宰。ひとりひとりの違いを楽しんで生きる社会の実現を目指しています。