大人になってからこんなに緊張することって久しぶり。で、あまりに久しぶりすぎる心の使い方をしてしまったためにちょっとしばらくふにゃふにゃとしてしまった。外界との接触を避け、内にこもり修復作業をすること数日、やっと復活した。表現するということは、裸になるようなものなんだな、と思った。人前で書くということは、人前で裸になることであり、それを覚悟するということだった。
観るのが好き、というただそれだけで演劇界隈の方々の仕事ぶりを見せていただくことがここ数年あり、直接関わらせていただく機会にも恵まれた。人生は不思議である。
書道には多大なコンプレックスがあった。なにせ書道展というものは、出すことに金銭的・精神的なハードルが高い。それゆえ学生時代は恩師のお世話になりっぱなしで出してもらったことも多々あったが、大人になってからそこに挑戦しきれないまま独自路線を進むことになった。それが自分は表現せずに、さまざまな人に書の楽しさを伝える「書道ファシリテーター」という勝手な肩書きである。
そんなわたしが人前で表現しようと思ったのは、今回の演出家青木みゆきさんのおかげである。照明の仕事をしている姿にひそかに想いを寄せていた。こだわりかたや仕事ぶり。光の表現力。そんな方に声をかけられたので、まあとにかく調子に乗ったということである。さらには歌の湯浅さん、朗読の本田さんも熊谷さんもそりゃあもう大好きな役者さんである。音響の本儀さんはいろいろな公演でお名前を拝見していたし、そして狛江で公演した動画でピアノの大迫さんの音色を聴き、こんな素晴らしい方々と一緒にできるなんて、と有頂天になっていた。
鹿踊りの始まり、うた時計、時をきりとる、という三つのお話。宮沢賢治の大好きな話、楽しげに踊り出すような言葉たち。うた時計のあたたかく人間味あふれるやりとりに入り込んでくる繊細なピアノのおと。ああ、どれもこれも思いのまま筆を走らせてみたいと思う「おと」である。書道をやってきて、こんなに自分が聴覚的な刺激に敏感になったことはなかった。これは初めての体験である。
最後の「時をきりとる」は震災をテーマにしたみゆきさんのオリジナルストーリーである。実は私と母のオーラルヒストリーも含まれていた。並べられた言葉たちの中に、自分たちが語った言葉や風景が入り込んでいる。ストーリーそのものではなく、「ことば」として「おと」としてそれらが誰かに伝わっていく。
ああ、このことばたちも表したい。しかしそれを表現することは「ことば」を残すべきなのか「おと」なのか。消えていくからこそ尊いことばもある。きりとるべきはなんだろうか。本番中にさまざまな葛藤が生じたのだ。わたしは何を表現したいのか。
ある程度頭の中で組み立てていたはずではあったが、実は本当に「書く」というリハーサルはしないままの本番だった(いま考えれば結構無謀だった)。流れは掴めたものの、実際には書いていない。ほぼ一発勝負である。そこで起きた自分の心の動き、そしてそれが筆にどう影響するのかなど、実は本当に体験しなければ分からなかったのだ。実は当日自分の書いたものをまともに見ることができなかった。
そのあと少しずつ感想を聞いたり、写真を見たりして客観的に見れるようになった。はじめての体験にしてはよし、ということにしよう。やっとそんな風に思えたので書き記したくなった。
人体実験、に近い体験だった。そして何よりも自分が「またやりたい」と思うような向上心(?)を持っていたことに驚愕している。もう二度とないかも、、、なんて言っていたが、またやりたい。人間とは強欲なものである。
※写真は都甲さん提供。なにせ自分で見れなくて写真に収めなかったため本当にありがたいです。